現時点で僕が世の中につけている解説

をまとめておくか。こういうのはどんどん変化していくから、書き残しておくと後で読んだ時おもしろい。


 一言でまとめれば、

言いたいことに、それっぽい解説を加えて、自信満々で発信した者勝ち

ということだ。
解説と自信、この二つがそろっていれば、人間は意外なほど簡単に騙される。というか、人間が他人の主張を取り入れる理由は、この二つしかありえない。ここで、僕にとって重要なポイントは、後から論理の穴を埋めるように考えた適当な解説でも人を納得させうることと、権威や自信によって、小さな論理の穴が見えなくなってしまうことだ。
 例えば、テレビとか本とか新聞とかで、何か問題を取り上げるとき、その道の専門家が出てきて色々な解説をしているけど、ああいうのは案外いい加減だと僕は思っている。特に、違う時間次元のものを取り上げるときはそう。過去のことを今になって振り返って後付けの解説をしたり、誰も分かるわけない未来のことを予言したり、どんな意義や根拠があるのか良く分からない。そうでなくたって、もしかしたら自分に都合よく物事を運ばせるために、分かってないことに、とってつけたようなもっともらしい解説をつけているだけかもしれない。なにより、嘘をついていないとしても、専門家だって何をどれだけ分かっているのか、自分でも把握しきれないほど世の中は複雑だ。
 だけど聞き手も、そういうのを一つ一つ疑っていたら、疲れるし、自分が生きる時間がなくなってしまうから、それっぽい人にそれっぽい理由をつけられると、やっぱり無意識のうちにそういうのを信じてしまう。本の裏表紙に、「○○大学教授」とか「○○を設立して成功した」とか書いてあっただけで、その本に対する印象は結構変わったりする。この日記を偉い先生が書いていたら?中学生が書いていたら?何かを信じるというのは、その程度のことなのだと思う。しょうもない。

 
 だけど、これが重要な発見なのだけれど、世の中の「駆動力」の根源は全てこの「しょうもなさ」にある。人間が行動の拠り所とできる情報は、この、「権威」と「自信」と「後付けの解説」だけで発信されたいい加減な情報しかないからだ。結局のところ、「本当はどうなのか」なんてのはどうだって良い。ポイントは、聞き手側が「それが本当だと思うかどうか」、この一点だ。
 この意味では、よく雑誌に載っている「飲むだけで身長が10センチ伸びる!!」的な錠剤を買っちゃう人も、振り込め詐欺に騙されてしまうお年寄りも、メディアに洗脳されている人たちも、メディアによる洗脳を批判している人たちも、学会で最新の学説を戦わせている研究者も、違いはない。あえて違いを言うならば、後の3つのほうが騙されている自覚がない分幸せなくらいだ。


 要するに、「無知の知」などと言っているのはキレイ事で、現実は、「後からとってつけたような解説をつける能力」と、「自信満々に振舞う能力」のほうがずっと重要だということだ。おそらく、世に言う「世渡りの上手い人」たちは、こういう能力にすごく長けているのだと思う。そういう人たちは、自然に「権威」も手に入れられるので、ますます自信満々になれる。すごいポジティブフィードバックだ。
 一方で、卒論の考察で厳密に考えすぎて、いい加減なことが書けなくて、かといって「何も分からない」という本音を書くわけにもいかず、悶々としている僕は、「世渡りの上手い人」になる予定はないだろう。ただ、疲れない程度には世の中の「しょうもなさ」を見抜いておける人でありたい。