失敗を恐れて真面目に生きてきてよかった

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真夏の日本海佐渡島

 

 新しい環境に移ってから半年が経とうとしている。学振ポスドクなので、毎日ほぼ100%の時間を自分のやりたいことに費やせていて楽しい。当然だけど、自由には責任が伴う。意味のあることに時間を使うための努力と思考を止めないよう、気を緩めず自分を律し続けている。

 一方で「この世を生きるのはそんなに難しいことではない」と最近思うようになった。というより、今まで自分は生きることの難しさを過大評価していたのだと思う。大人は子供に「大人になったら大変だ」と言うし、会社員は学生に「会社に入ったら大変だ」と言うし、ポスドクは学生に「ポスドクになったら大変だ」と言ってくる。だけどそんなことを言われながら、自分自身が歳をとって、人生も中盤になり、攻めどころと守りどころのバランスを考えたり、落としどころを探し始めたりするようになって見えてくるのは「そんな必死に頑張らなくても全然普通に生きられそうじゃん」ってことだ。真面目に生きるように脅されて、その通りに真面目に生きたら、真面目にやっているだけでも世の中では価値があるかのように扱われる。真面目に生きるように脅してきた大人には全然真面目じゃない人がたくさんいて、そういう人たちにも居場所は全然ある。ここでいう「真面目」っていうのは、抽象的だけど、学校で「良い子」として教わるような態度だと思っていて、約束を守るとか、言ったことを最後までやるとか、間違いを反省するとか、そういうレベルの話だ。

 ポスドクは茨の道だと言われていたけど、いざなってみて、周りを見渡してみればそこまででもない。真面目にやっていれば、そして行先を選り好みしすぎなければ、普通に職は見つかる。なので以前は、博士課程に行くかどうかを迷っている人に相談されたら、「良く考えたほうが良い」と言っていたけど、最近は「今行きたいなら行ったほうがいい、真面目にやってれば必ず職はある」と言うようにしている。

 思っていたよりも世の中ははるかに自由でイージーだ。山頂に続くレールばかり見えていたけど、実はその麓には広い裾野が広がっていて、そこにも人がたくさん住んでいる。正直な話、今からサボって生きても、今までの自分の努力の貯金を消化しながら居場所を見つけ続けられるのではないかとも考える。こういうことを思うようになって、自分を律して努力し続けることの意味が変わってきたと感じる。「失敗したくない」という感情ではもうモチベーションが続かない。何が失敗なのか分からないからだ。自分が明らかにしたいこと、挑戦したいことは何なのか、そのためには1日1日をどう過ごせばよいか、を考え続けることで自分を律し続けなければならないと思う。その結果として、一流の研究者になれれば面白い。

 色々遠回りしてようやく健康的に自分のやりたいことを追えている感が出てきた。失敗を恐れて真面目に生きる必要はなかったが、失敗を恐れて真面目に生きてきてよかったとは思う。自分の生き残りで頭が一杯だったのも過去の話になってきて、自分を真面目に育ててくれた環境やお世話になった人にお返ししたいという気持ちも出てきた。

  なんか半年前の記事とはまるで逆のことを言っているような気がするけど、今、ポスドクになって半年で率直に感じていることを記録しておく。