哲学・論理学・心理学との出会い


荒波@雄島

 高校生まで、「成績」という絶大な評価軸に上手く乗って生きてきた、ガリ勉優等生タイプの人間にとって、大学に入学して「社会の広さ」「評価軸の多様さ」を目の当たりにし、心を打ち砕かれるイベントは通過儀礼なのではないかと思う。僕自身も、大学の学部生の頃、この壁にぶち当たって、精神的にひどく落ち込んだ時期があった。

これまでの自分が自信の拠り所にしていたものは、クソ広い世の中から見れば全然大したことない。世の中には「答え」も「あるべき像」も無い。自分は万能ではないし、何者でもない。無限に存在する大人の中の一人でしかないのだ!

ということを頭で理解し、心で理解し、完全に受け入れて一人の大人として自立して歩き始める自信を得るまでには、2年くらい必要だった。そのプロセスで僕の思考を大きく成長させたのが哲学だった。高校生までの僕は理系の学問にしか興味が無く、哲学は空想の世界で屁理屈をこねているだけのくだらない学問だと思っていた。だけど、万能感を喪失し、落ち込み、自分を見つめなおすべくこれまでにない深い思考を重ね、自分の考えを分解しつくし、行きついた境地は、まさに哲学が通ってきた道で、「懐疑主義」「相対主義」「実証主義」「反証主義」といった名前ですでに説明が付けられているものだった。その経験によって初めて、哲学は発散する自分の思考を現実世界に繋ぎとめるという現実的な用途がある、有用な学問なのだと気づくようになった。すでに先人によって考え尽されている事なのであれば、自分で考えるよりも勉強したほうが早い。一度興味を持つとのめりこんでしまうのが僕の性格で、科学哲学系の入門書を中心に、哲学の本を読み漁った時期があった。この経験は僕にとって本当にかけがえのないものだった。ちなみに今少し過去を振り返ってみたら、哲学的妄想にのめりこんでいた頃の自分の日記が出てきて面白かった。(しかし、昔の自分のブログを読んでいると、本当に面白くて、哲学的な洗練の過程で苦しんでいる時代のほうが、パンチが効いた文章が書けていたと感じる・・・そしてこのブログが自分の思考を整理するために絶大な機能を果たしていたことが分かる)
 哲学を勉強していく過程で、自動的に興味を持つようになったのが、思考の過程を最高レベルに抽象化した結果である論理学だ。簡単には「AかつB」の否定は「「Aでない」または「Bでない」」という大学入試レベルの話なのだけど、突き詰めていくと非常に面白い学問で、往々にして「論理的に正しいことと、心理的な直感が一致しない」事態が存在することが分かる。元来「メタなもの」が大好きな自分にとって、「人間の直感はちっとも合理的で無いということが、合理的に説明されている」ということが、ものすごく面白かった。そして「直感を合理で否定できる精神を獲得したい」という尊大な欲望が、論理学からさらに心理学へと自分の興味を進めていった。心理学と言っても、主に認知バイアスを扱ったものが中心だけど、世の中には「頭を使って直感に反する選択をするのが正解」なケースがたくさんあるということを頭で理解することは、驚きと発見の連続で、何よりも自分が賢くなったような気がして非常に楽しかった。
 幸か不幸か、大学院生になって以降は現実世界が忙しくなってきて、そのような抽象的思考にとらわれる時間は無くなってしまった。だけど今でもよく思うのが、あの、人生で最も時間が有り余っていた、モラトリアム学部生時代に、哲学・論理学・心理学に触れた経験が、今の自分の思考のベースのかなりの部分を形作っている、ということだ。あらゆるものの価値は主観によって相対的に決定されること、「周囲を疑うこと」よりも「自分の立場を表明すること」のほうが生産的であること、科学にとって再現性・反証可能性が致命的であること、直感には都合の良いものばかり集めて自分を肯定し安心したがる習性があること・・・などなど、挙げるとキリがないけれど、ごく無意識的に、こういうことを前提に置きながら、自分が日々思考しているということに、ふとした瞬間に気が付く。そして、それが学部生時代に自分にたまたま時間があって、たまたま哲学に興味を示したことをきっかけに行きついた境地だということを想像して、本当に良かったと思うと同時に、もしそれが無いまま人生の忙しい時代に突入していたと思うと本当にぞっとする。
 じゃあ、中学・高校・大学で哲学・論理学・心理学を必修にして、強制的に身に付けさせる教育制度だったら良かったのか?というと、残念ながらそうではないと思う。僕自身、自分で哲学の重要性に気が付くまでは、それに微塵も興味を示さなかったからだ。高校の倫理の授業で出てきた哲学者の名前も、完全に試験対策情報としてしか認識していなかった。知識を正しく吸収するためには、単に「やれ」と言われるだけではダメで、自分の興味と、触れる情報が絶妙にマッチした瞬間でないとダメなのだ。
 そう考えると、僕が哲学・論理学・心理学にハマって、今の思考の基盤を得るに至れたというのは、改めて本当に偶然だったと思う。(1)たまたまモラトリアム学部生の時間が余って仕方がなかった時代に、(2)たまたま自分が万能感を喪失して精神的なダメージを負い、(3)たまたま自分が何でも突き詰めて考えなければ気が済まない性格で、(4)たまたま自分の思考の終着点が過去の哲学者によって説明づけられている境地だということを知ったが故の結果だ。もう一度人生をやり直したとして、同じように哲学・論理学・心理学を自分から勉強したいと思える事態になっただろうか?僕は自信が無い。
 今の自分は、想像以上に絶妙な偶然の結果で成り立っていて、それを当たり前だと考えるべきではない。当たり前だと思っていることが、出会うべき時に、出会うべきものと出会えたことの幸運の結果であることを時々思い出して、感謝しなければならないし、これからもそういう偶然の出会いをできるだけ増やせるように、可能性を広げる努力しなければならない、と思う。