生活がゆっくりになってきた


紅葉の時期に瀬田川上空に現れるビームの正体@石山寺

 どんなに意思が強い人間でも、周辺環境から受ける影響というのはとても大きくて、「慣れる」というのは怖いことだと思う。会社を辞めて大学院生として研究に戻ってきてすぐの頃は、仕事に対するスピード感や金銭感覚の、前の環境とのあまりの違いに戸惑ったり苛立ったりすることが多かった。前の会社で「終わるわけない、意味が分からない、物理的に詰みでしょ、ふざけるな」とかいいながらも無茶苦茶なスケジュールで体が壊れる寸前まで働いて何とか1週間で仕上げていたような量の仕事に、今の環境では1か月とかかけても怒られない。それは単に、お客さんに指定された納期がないからみんなノンビリしているというだけではなくて、会社で良しとされていた、外注にザブザブお金を使ってとにかく早さを追求するというような働き方が金銭的に無理ということも理由にある。論文読んだり書いたり研究計画立てたりするだけでなく、資料作成・実験器具洗い・事務作業まで、何もかも自分でやらなければならないから、どうしても仕事のスピードが遅くなる。
 で、言いたいのは、研究に戻ってきて時間がたって、少しずつ会社員時代の仕事の仕方を忘れてきているのが怖いな・・・ということだ。4月に研究に戻ってきてすぐの頃は、「納期を自分で決めて、もっと詰めて仕事しなきゃな」とか「お金があったらこんな非効率なことしなくて済むのに」とか思いながらやっていたけど、最近はだんだんと「睡眠時間削ってまでやりたくないなー」とか「頼んだら高いし自分でやっちゃおう」とか考えるようになった。もっと怖いのは、最近だんだんとそれすら感じなくなってきてしまっているということだ。せっかく外の世界の経験を持ち込んできたのだから、こっちのやり方に染まってしまってはダメだと思って、研究に戻ってきた直後に自分が感じた違和感を思い出して自分を奮い立たせようとするのだけど、やっぱり周りの環境の影響力というのは大きくて、自分一人で意思を貫くのは難しい。やはり、そういう環境に身を置いて引き締めることが定期的に必要だと痛感する。
 一方でそれの裏返しになるのだけど、前の環境で無意識的に慣らされていたなぁ、と今になって気づいたこともある。それは「効率よくやって楽することは良いことだ」という考え方だ。会社員時代は「効率よく楽に儲ける」やつが偉かった。効率よくやれば、早く帰れる。効率よくやれば、より多くの仕事を回せる。非定型だった仕事を定型化し、ルーチンワークに落とし込んで、低労力で汎用的に価値を発揮する方法を考えたチームは、社内で表彰された。複雑なものを複雑なまま考えようとするのは愚で、複雑なものは単純化して、楽に処理できるようにするのが正義だった。この考えは、目的がはっきりしているビジネスの場面では正しい可能性が高い考えだ。だけど、非定型でクリエイティブな仕事をするにあたっては、「非効率」の存在を容認しないと良い結果にはつながらないのではないかと思う。これは簡単に言えば「試行錯誤が許されているかどうか」だ。非効率な失敗を繰り返さないとたどり着かない境地というのは、必ず存在する。想定内の状況下で楽な近道を探す能力をどれだけ鍛えたところで、想定外の状況で上手く立ち振る舞えるようになるわけではない。今僕は、4月から今まで、ずっと失敗し続けている実験がある。成功すればそれなりに大発見なのだけど、その可能性は低い。それでも続けられているのは、失敗しながらでないとたどり着けない場所を目指すことを許し、非効率を愚としない、今の環境に身を置けているおかげだと思う。楽に成果を出すことを追求する環境だと、手を出すことは許されない実験だ。4月に研究に戻ってきた当初は、「いかに考えていることを早くやるか」ばかり考えていたけど、最近少しずつ「もっと失敗してもいいんだ」「せっかくならでかい目標を立てたほうがいいな」という気持ちになれてきた。
 結局、自分の考え方や働き方というのは、自分の意思以上に、周囲の環境の影響を受け、形作られていくものだと思う。これは僕の人生の基本戦略でもあるのだけど、人生の岐路においては、「何をやるか」よりも「どこでやるか・誰とやるか」のほうを圧倒的に重視すべきだと思う。研究に戻ってきて1年弱、少しずつ今の環境に染められはじめている中で、自分の意思はあまりあてにせず、会社的な効率的なやり方、研究的な試行錯誤、そのどちらの環境にも自分の身を置けるよう、いろんな人と、いろんな場所で仕事をするように、意識的にやらないとまずいなぁ、と思う。