結局僕は報われたい
会社を辞めて博士課程に戻ってから1年半が経とうとしている。そろそろ「元会社員」というアイデンティティも薄れてきて、単なる一人の博士課程の学生としての実感のほうが大きくなってきた感じがある。これまでの僕は何かと「会社員時代の自分」の「今の自分」を比較し、「会社を辞めてどうだったか」ということばかり考えてきた。それだけ、会社を辞めるというのが悩み抜いた末の選択だったから、考え事も多かったということだ。最近になってようやくそれが気にならなくなってきた。良くも悪くも、会社を辞めた直後の生意気さが薄れてきた。そしてそれと同時に、アカデミアの中での自分の未熟さを痛感するようになった。
学会のトップを走る研究者達は思った以上に途方もないレベルで戦っている。それに比べると僕なんて本当に何の実績もない末端のゴミくずだ。(それが実感できただけでも、僕は研究に戻ってきてすごくよかったと思う。やっぱり世の中は僕が思っていたほどショボいわけがなかったことに、安心した。尊敬すべき人間がこの世にはたくさんいる。)だから今の僕がやるべきことは、とにかく研究で実績を上げて、ゴミくずを脱却し、天空で戦っているトップ研究者たちに仲間入りすることだ。それは本当に、思っていたよりもはるかに、とてつもなく大変なことだ。それをやるのに、会社員だったかどうかは関係ない。だからもう僕は、会社員を辞めて研究に戻ってきたこと自体に価値を感じようとしなくなった。
そしてそう思うようになったことで、僕はフラットに「自分は何をやりたいんだろう?」ということを考えられるようになってきた。「会社に比べて研究がどうだ」という話ではなく「そもそもなぜ僕は研究がやりたいのか」という話。僕は性格的に研究者に向いていることは間違いないのだけど、今の研究テーマに特段こだわりがあるわけではなく(そもそも一生同じネタで研究できる幸運を期待すべきでない)、全く別のテーマに取り組むとしても、研究者という仕事を僕は楽しめそうな気がする。でも、それがなぜなのか、きちんと説明できないでいた。
で、色々と考えたのだけど、あらゆる考えを集約した結果、結局僕が求めているのは、
どれだけ頑張っても損をしない環境
なのだと思うに至った。研究者という職業は「論文」という極めて属人的で客観的な指標によって、そのパフォーマンスを評価される。やればやるだけ成果が出るし、どれだけやっても「やりすぎだ」とは言われない。好きなだけとことんやればいい。この「頑張りが全て論文として形になる」という単純システムが、僕が研究者という職業にあこがれを感じる理由になっているのだと思う。僕は、研究者の論文業績リストを眺めるのが大好きだ。声の大きさや政治力にモノを言わせるだけでは達成しえない、その人が本当に人生を賭けて成し遂げてきた仕事が、静かにリスト化されている。本当に美しい。
僕はこれまでにも散々「命懸けで働きたい」ということを書いてきたように、常に自分の出せる実力の上限で働きたいし、そのパフォーマンスで評価をされたいと思っている。以前働いていた会社は、はっきり言うと(違うという人もいるかもしれないが少なくとも僕はそう感じた)、率先して一生懸命仕事をすると損をする仕組みになっていた。「いかにこだわるか」でなく「いかに手を抜くか」を考えることが推奨されているのでは思うことすらあった。様々な愚痴はあるけれど、結局僕が耐えられなかったのはそこに集約されるのかもしれない。もちろんそれに耐えて戦い続けて、会社の力を利用して大きな功績を上げる人間もいた。だけど僕は、そんな苦労をするのなら、一人でもいいからすぐに結果がでる世界で働きたいと思った。「一生懸命やっても大丈夫」という環境で心置きなく自分の本気を出して、それで褒められたり、ボコボコにされたりしたかった。逆に言えば、その条件さえ達成できていれば、僕の選択は必ずしも研究者でなくてもいいのではと思う。
僕の論文業績リストはまだスカスカだ。今こんなに頑張っているのに、トップ研究者からみればゴミ以下の業績しかない。そして一生懸命アウトプットを出すことでしか、ゴミを脱却する方法はない。この論文リストを拡充していく人生。とてもかっこいい。